
何かをやりたいという気持ちがふいに湧き上がっても、私はめったにすぐ行動に移さない。すべては頭の中の厳格な受付手続きを経なければならない。起案者も審査者も最終決裁者もすべて私一人——実に勤勉な組織である。
しかし、この内部システムはそこらの官公庁以上に複雑で非効率だ。夜遅く、なかなか悪くない文章のネタが浮かんだときを例にとろう。
数行でもすぐ書き留めておけばいいものを、私の中では決まって白熱した審査会議が招集される。
- どこかで見たような題材ではないか。
- 既に書いた内容と重複していないか。
- 明日にはつまらなくなる話ではないか。
- あまりに個人的、あるいは逆にあまりに平凡な話ではないか。
- そして何より、これは本当に自分が書きたい文章なのか。

一行も書いていないのに、企画を却下するためのもっともらしい理由がすでに五つ揃っていた。
結局その夜、私が仕上げたのは一編の文章ではなく、そのアイデアを却下するための理由書だった。
感情発生経緯書を提出せよ
この手続きにかけられるのは考えだけではない。感情にもまた、同じような規定が適用される。
理由もなく心が底まで沈む日には、私はそれを決して放っておけない。どうしてもこの感情の震源を突き止めなければ気が済まない。仕事に追われたせいなのか、一人きりの時間が足りなかったせいなのか、単に寝不足なのか、それとも人生の方向まで見失ったのか、一つひとつ問い詰めていく。
実際に体が求めているのは短いひと眠りだけなのに、内部監査チームは相変わらず現状についての弁明書を要求し続ける。
楽しいときも事情は同じだ。本当に好きで嬉しいのか、新しさに一瞬浮かれているだけなのか、現実逃避の口実を見つけて興奮しているのか、どうしても確認しようとする。感情が一つ生じるたびに、産地と成分表を調べるようなものだ。

こんなことが繰り返されると、感情をまるごと味わう時間はなくなってしまう。喜びは真偽の判定を待つ間に冷め、悲しみは発生原因の説明に追われて、しかるべきタイミングで悲しめない。
私にとって思考はしばしば理解のための道具ではなく、自分を追い詰める苛酷な聴聞会も同然だ。
「なぜそんな気持ちになったのですか」
「その気持ちが本心だという証拠はありますか」
気持ちというものは概してこの手の質問に弱い。そもそも確信を抱いて生まれてくる感情は稀だからだ。大抵の感情は少し曖昧で、前後が合わず、今日と明日の供述も異なる。
しかし私の中の審査委員会は一貫した回答をどこまでも求める。委員会は一名で構成され、全会一致を原則とする。
ところがその一名が、いつも反対する。
本心の資格要件
振り返ってみると、内なる審査委員会が求めていたのは納得できる理由だけではなかった。その気持ちが今後も続くという保証まで欲しがっていた。

文章を一編でも書いてみたいなら、これからも書き続けるつもりがあるのか答えなければならなかった。ふと趣味を始めたくなれば、今度はどれくらい続けられるのか先に申告しなければならなかった。新しい学問に興味が湧けば、それが将来どんな役に立つのか説明しなければならなかった。
今日ちょっとやってみたかっただけなのに、いつの間にか将来の計画と持続可能性まで審査されていた。今日の好奇心に、未来の自分を連帯保証人として立てたようなものだ。
私は長く続く気持ちだけを本心だと見なしていた。数日で興味が失せれば、やはり衝動に過ぎなかったと判断し、始めたことを最後まで続けられなければ、最初の熱意さえ誇張だったと結論づけた。
問題は考えすぎることにあったのではない。やりたいという気持ちを一つの事実として受け入れられず、許可を取るべき主張として扱っていたことにあった。一つの行動を選ぶことと、自分がどんな人間であるかを確定することを、いつも同じ決裁箱に入れていた。
白紙の文書を開くことは、もはや数行書いてみる軽い試みではなくなっていた。これからどんな人生を歩むのか一票を投じる行為のように、重くなっていた。
仕事を始めるための仕事を始める
この習慣は一見すると立派に見える。やみくもに飛び込むよりも十分に考え、自分に合った方法を見つけてから動く慎重な姿勢のように映るからだ。

問題は、準備だけが度を越して完璧だったことにある。
コンセプトアートを描いていた頃にはよくあることだった。何かを描きたくなると、まずリファレンスを集め、何を描くかをテキストで具体化した。リファレンスフォルダと設定資料はなかなか充実したものになったが、肝心のキャンバスに残ったのは貧弱なスケッチだけだった。
それをスケッチと呼んでいいかどうかは別途審査が必要だった。作業自体は最初の段階で止まっていたが、作業を始めるための体制だけはほぼ完璧だった。
私はこれを長いあいだ怠惰と呼び、やがて完璧主義と言い換え、ときには意志薄弱だと裁定した。名前はよく変わったが、結果は似たようなものだった。
自分をより正確に理解するために始めた分析は、いつの間にか自分を動けなくする判決文になっていた。
議題はまた次の会議に持ち越される。
審査中に消滅
この複雑な決裁体制はいくつかの誤った選択を防いでくれたが、それよりはるかに多くの気持ちを期限切れにしてしまった。気持ちは決裁を無期限に待ってはくれない。

ある興味はひと季節ほど留まり、ある衝動はその夜が明ける前に手を動かさなければかろうじて形になる。最初は明らかにやってみたかったことも、審査台に長く載せすぎると、次第に輝きを失っていった。
そして私は冷めた気持ちを眺めて、やはり本心ではなかったと結論づけるのだった。審査が遅れる間に気持ちの効力を失わせておいて、効力を失ったという理由で再び却下する——隙のない行政だった。
しかし短く留まったという事実が、その気持ちまで偽物だったことを意味するわけではない。束の間の関心も、その束の間の間は本物でありうる。今日好きだったものが明日色あせたとしても、今日の気持ちまでが虚偽になるわけではない。
あの気持ちが本心でなかったのではなく、本心であることを証明しようとして、私のほうが先に疲れ果てていたのかもしれない。
事前承認制の廃止
だからといって、これから考えを減らして生きようと結論づけることはできない。考えるのをやめろというのは、内部監査チームに自主解散を勧告するのに等しい。
おそらく監査チームは、解散の妥当性を検討するための別の会議をまず開くだろう。
私はいまだに構造が見えた瞬間が好きだし、散らばった感情を文章にまとめるときに生きている実感がある。ただ順序を少し変える必要がある。
以前は十分に理解してからでなければ始められないと信じていた。けれど今は、やってみること自体も理解の一部だと考えている。
自分がどんな文章を書きたいのかは、実際に何編か書いてみて初めて少しずつ見えてきた。何を長く好きでいられるかも、最初からわかるものではなかった。
やりたいという気持ちは事業計画書ではない。新しい挑戦は毎回本心を証明しなければならない試験ではなく、自分の心の形を知るためのいちばん簡単な問いかけでありうる。試してみて合わなかったなら、性格上の欠陥が露呈したのではなく、自分についてのささやかな使用レビューが一つ増えただけだ。

だからこれからは、最終承認の代わりに、一定の範囲の専決権を心に返すことにした。
- 二十分以内に始められる案件は担当者決裁で処理すること。
- 原因不明の感情もとりあえず受理すること。
- 今日の興味に五カ年計画を要求しないこと。
- 興味が消えたという理由で最初の届出まで虚偽と判定しないこと。
思ったより大胆な運営方針だ。
最終審査省略
この文章もまだすべての決裁を通過していない。比喩を引っ張りすぎたのではないか、中盤がだれていないか、結局ありきたりな教訓に着地したのではないか——検討すべき箇所が残っている。
明日もう一度読めば、段落をいくつかまるごと削りたくなる可能性も高い。担当部署はすでに懸念を表明している。
それでも今回は、その懸念を議事録に留めるだけにして、文章のほうは外へ出そうと思う。気持ちが完全に解明されてからでなければ行動できないのなら、たいていの気持ちは解明の最中に消えてしまうのだから。
よって本案件を条件付きで承認する。
条件はない。
条件をつけた瞬間、また会議が始まるから。
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