ブレードランナー 2049(BLADE RUNNER 2049, 2017)── この人生が複製品でないことを願う心

跡形もなく消えるはずだった存在たちが、それでも生き残り、息をつないでいく理由。

暗いコンクリートの建物から開いた扉を抜け、雪原へと足跡が続いている。
この記事の音楽 Baseline Nap Lee / made with Suno
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※ この記事では、映画『ブレードランナー 2049』の主要な設定から結末まで触れています。まだ鑑賞していない方は、鑑賞後に読むことをおすすめします。

いずれ捨てられるために造られたのだとしても、自らの終わりを素直に受け入れられる存在などいるだろうか。夜ごとひとりで耐えてきた孤独も、あれほど切実に求めた慰めさえも、誰かが埋め込んだ一連のコードにすぎないのだとしたら、この人生の所有権は、いったい誰にあるというのか。

2049年、カリフォルニア。生態系はとうの昔に崩れ去り、草の一本も生えない。乾ききった荒野を覆っているのは、果てしなく並ぶ太陽光パネルと、タンパク質を打ち出す合成農場だけだ。

2022年に西部の上空で炸裂した核は、世界のあらゆる記録をまるごと呑み込んだ。帳簿も戸籍も目のくらむ光とともに蒸発し、生き残った人々は古びた紙片と骨に刻まれた痕跡を頼りに、かろうじて過去を手探りするしかない。

のちにこの空白が、ひとりの子どもの存在を世界から完全に消し去ることになる。

『ブレードランナー 2049』の世界で、人間を模して造られた人造人間「レプリカント」は、徹底して消耗品として生産され、搾取される。過酷な労働と地球外植民地の開拓に投げ込まれた彼らは、利用価値が尽きれば容赦なく廃棄される存在だ。

彼らを最初に創造したタイレル社はとうに没落し、その遺産はニアンダー・ウォレスの手に渡った。タイレルが残した旧型「ネクサス8」には定められた寿命がなく、命令を拒む自由意志が残されている。一方、ウォレスが新たに開発した新型「ネクサス9」には、設計段階から絶対的な服従が刻み込まれている。

人間は、いつ統制を逃れるかわからない旧型たちに「退役」という名目をかぶせ、合法的な狩りに乗り出す。そしてその残酷な任務を、ほかならぬ新型レプリカントに担わせる。結局、狩る者と狩られる者は同じ根から生まれた兄弟なのだ。ただ一方が、盲目的に従うように造られただけで。

K(ケイ)は、この堅固な秩序の執行者であると同時に、徹底した被害者でもある。人間に服従するよう設計された新型レプリカントであり、同族を狩るブレードランナー。彼は命令に背いて逃げた旧型を追い、破壊する。人間の安寧のために、どうしても同族の息の根を止めねばならない矛盾。Kの物語は、この呪われた軛のなかで始まる。

彼はどこにも根を下ろせない。人間の目に彼はただ不吉な機械でしかなく、同族の目には血にまみれた裏切り者でしかない。徹底した異邦人。まともな名前の一文字さえ持てないまま、彼はシリアルナンバー KD6-3.7 の頭文字だけで呼ばれ、一日一日を無感覚に磨り減らしていく。

それでもKには、まだ廃棄されずに残った渇望がある。がらんとした部屋で向き合う冷たい孤独も、毎晩誰かが自分を待っていてほしいと願うあの切ない気持ちだけは、どうか精巧にプログラムされた幻ではありませんように、と。

同族を処刑する者の顔

最初の任務がKを導いたのは、土埃の舞う静かな農場だった。風だけが乾いた窓を叩くその場所に、自分を消して生きているレプリカント、サッパー・モートンがいた。

彼は退役を拒んで逃げたネクサス8だった。廃棄命令を逃れて地球の土のなかへ潜り込んだその瞬間から、彼が息をしているという事実そのものが罪だった。

かつて衛生兵として戦場を駆け抜けたであろう巨大な両手は、いま黙々と土を撫でている。被造物が土のぬくもりを借りて、自分の生を証明しようとしているかのような光景。当然のごとく廃棄されるべき「物」である彼が、なぜ暮れゆく陽の下で、あれほど完全な人間の顔をしているのか。

その老いて疲れた顔の裏に隠されていたのは、単なる逃亡者の事情だけではなかった。彼は世界の土台を覆すほどの秘密を長く守り抜いてきた、数少ない証人だった。

しかし、命令を遂行しに来たKにとって、サッパーの内面は考慮の対象ではない。ただ「退役」させるべき旧型にすぎない。二人の身体がぶつかり、壁が崩れ、Kは何度も床に叩きつけられる。

息が絶える直前、サッパーは自分を見下ろす新型の目を見据えた。お前たち新型は奇跡を見たことがないから、そうやって人間の尻拭いをして生きていられるのだ、と。ようやく身を起こしたKは引き金を引く。自分がたったいまどれほど巨大な秘密を葬ったのかも知らぬまま、道具を廃棄するもう一つの道具として、任務を果たしただけだった。

雨に濡れた床に壊れた機械の眼がひとつ転がり、壁には無傷の眼が列をなしている。

だがサッパーの死は、実績報告書の一行では終わらない。サッパーが残した最期の言葉と、農場の隅に埋もれていた痕跡は、やがてKを書類の外へと引き寄せる。

亀裂のはじまり

サッパーの息の根を止めてもなお、どうしても消えないものがあった。「奇跡」という言葉。旧型が吐き出した戯言だとばかり思っていたその二文字が、Kの完全に統制された世界に突き刺さり、なかなか抜けなかった。

農場の枯れた木の下から掘り出された遺骨箱が、その正体だった。骨の主は、三十年前に忽然と姿を消したタイレル社のレプリカント、レイチェル。古びた骨盤には、帝王切開の痕がくっきりと刻まれていた。

その傷跡が指し示すものは明らかだった。生産されるだけで、決して生まれることはない。この世界の堅固な土台が、あっけなく覆されたのだ。レプリカントたちにとっては自ら主人となるための血にまみれた大義であり、体制を維持せねばならない人間社会にとっては、まさしく災厄だった。

警察組織はこの不穏な真実を急いで葬ろうとしたが、証拠は何度もKの記憶を指し示した。遺骨を抱いていた木の根元に刻まれた古い日付。捜査の手がかりとなったその数字は、Kの頭に注入された記憶、あの古びた木彫りの馬の底に刻まれた日付と、寸分違わず一致した。

雪の残る暗い床に、古びた木彫りの馬と複数の半透明な馬の模型が立っている。

その日付をもとに出生記録をたどると、決してあってはならないものが引っかかった。同じ日に生まれた男女ひと組。遺伝情報が一分の狂いもなく重なりながら、性別だけが異なる、この世に存在しえない双子だった。記録のなかの女の子は遺伝疾患で早くに息を引き取り、男の子だけが人里離れた孤児院へ送られていた。

Kは生き延びたほうの薄い痕跡を追って歩きはじめる。誰かが緻密に設計した分かれ道だとは、夢にも思わないまま。捜査官の目で手がかりを追っていた彼は、その瞬間、事件の渦中に立つ当事者になってしまった。

自分こそがあの「奇跡の子」かもしれないという危うい仮説。Kがこの危険な信念を押し進める理由はただ一つだった。自分もまた工場で組み立てられて廃棄される消耗品ではなく、誰かの身体から生まれ、固有の過去を与えられた完全な「生命」かもしれないという渇望のためだった。世界を救う大仰で英雄的な運命など望んでもいなかった。彼が切実に求めたのは、自分にも母の身体からはじまった本当の「はじまり」があったという、たった一つの証明だけだった。

規格を外れた者

体制が本当に恐れているのは、生殖能力そのものではない。生まれた存在の内に宿る「魂」への信仰だ。レプリカントが自ら魂を持つと信じた瞬間、堅固だった統制はあっけなく崩れ去ってしまうのだから。

Kの上官ジョシ警部補は、その子を見つけ出して痕跡も残さず廃棄せよと命じる。もしK自身がその子であるなら、自らの手で自分を消し去らねばならない。生まれた存在と造られた存在のあいだに、それほど大きな違いがあるのかというKの問いに、ジョシはこともなげに応じる。お前は魂などなくても、これまでうまくやってきたじゃないか、と。

Kの時間は長く、完璧な統制の下に縛られてきた。追跡、殺害、報告。この軌道の果てに残るのは、がらんとした部屋の闇へ染み込んでいく無彩色の日常だけだ。警察署でも、古びたアパートでも、人々は彼を「スキンジョブ」と呼んで蔑む。玄関の扉に傷跡のように殴り書きされた罵倒は、いくら消しても翌日には決まって甦る。彼が帰る場所は、その侮辱的な扉の内側だけだ。

過酷な任務のあとに間を置かず続くベースライン・テスト。閉ざされたブースは、Kの内面の亀裂をもっとも露骨に暴き出す空間だ。調査官が浴びせる歪んだ言葉の爆撃のなか、機械は揺れるKの瞳孔を読み取っていく。ベースライン・テストは、レプリカントが感情の動揺なく規格のなかに留まっているかを判別する装置だ。Kは毎回、機械のように答えながら、自分に人間の心などないことを証明しなければならなかった。一瞬の震えでも見つかれば、その場で不良品として廃棄されるのだから。

だが、あれほど強固だったKを揺さぶったのは、内に植えつけられた幼年期の記憶のひとかけら、孤児院の暗い焚き口のなかに隠しておいた馬の形の古びた木彫り人形だった。

記憶設計者アナ・ステリンは、無菌室に閉じ込められたまま、レプリカントたちの頭に移植される幼年期を紡ぎ出す創造者だ。免疫不全のため一度もガラスの外に出たことのない彼女は、実際の経験を記憶として移植することは禁じられている、とKに告げる。

Kの記憶を深く覗き込んだ彼女は、それが誰かが実際に経験した「本物の記憶」であることを確かめてくれる。静かに涙を流す彼女の眼差しを見て、Kはそれが自分に向けられた憐れみだと信じる。Kはついに激情を爆発させてしまう。生涯を模造品と蔑まれ、感情を去勢されてきた機械が、ようやく自分が誰かから生まれた「本物の生命」だと確信して吐き出した、最初の慟哭。

自分の過去が本物だと悟った瞬間、Kのベースラインは取り返しがつかないほど崩れ落ちる。感情の余震が収まらぬまま、ふたたび向き合う密室。Kの声はわずかに外れ、答えのテンポは遅れる。機械は容赦なく彼を「ベースライン逸脱」と判定する。徹底した統制社会において、それは死刑宣告に等しかった。

黒い水に数十本の音叉が立ち、そのうち一本だけが金色に光って波紋を広げている。

だがジョシは、即座に彼を廃棄する代わりに四十八時間の猶予を与える。これまでの実績を口実にしたが、それが本心のすべてではなかった。のちにウォレスの手下がグラスを握る手を残酷に握り潰しながらKの行方を問い詰めたときも、ジョシは最後まで口を開かなかった。子どもを消せと命じた者が最後の瞬間に守り抜いたのは、体制の命令ではなく、自分の部下だった。

そうして生き延び、規格の外へ押し出されたKは、ようやく誰の命令でもない自らの意志に従って歩きはじめる。

創造主の盲目

Kが追う真実の対極には、企業家ニアンダー・ウォレスが座している。無数の生命を鋳造してみせるこの傲慢な創造主は、当の本人が自分の目で世界を見ることができない。宙に漂ういくつかの機械の眼を浮かべたまま、彼はただそれらを借りて世界を覗き見るだけだ。ウォレス本社の内部は、捨てられた神殿のように冷たく静まり返っている。闇のなかで揺らめく黄金色の照明が映し出すのは、何ひとつ見えない者の顔だけだ。

巨大で暗いコンクリートの部屋で、複数の機械の眼が金色の水面へ光を投げかけている。

そこで、粘つく羊水を裂いて新型レプリカントが零れ落ちる。ビニール包装のような膜を破って現れた被造物に、祝福は与えられない。震える生まれたての皮膚の上を、ウォレスの指先がなめらかに滑っていく。だがそれは、出荷された商品の不良を見極める鑑定士の冷たい手つきにすぎない。生殖機能を備えていないという理由ひとつで、ウォレスは被造物の身体に無造作にメスを走らせ、廃棄してしまう。彼にとってレイチェルが残した骨とは、宇宙開拓のために工場の生産力を飛躍的に高めてくれる、ただの生物学的特許品なのだ。

その聖域を守る門番はレプリカントの「ラヴ(Luv)」だ。ウォレスは彼女を自分のもっとも完璧な天使と呼び、みずから名前まで授けた。名を賜った被造物らしく、彼女は誰よりも忠実だ。主人の命を奉じて人間の首をへし折り、同族の息を止めるまさにその刹那にも、彼女の頬には音もなく涙が伝う。賜った名を守り抜くために、彼女は毎回、自分の魂の内側を容赦なく裏切る。

誰かから名前を与えられることが、そのまま自由を意味するわけではない。その名を「誰が」手渡したのかが、最後まで足枷のように残るからだ。

のちに、ラヴの手で縛られた老人がひとり、ウォレスの前に立つ。三十年前にレイチェルとともに世界から姿を消した元ブレードランナー、デッカードだ。ウォレスは彼から情報を引き出そうと、かつての恋人レイチェルと完璧に同一の複製品を鋳造して立たせる。しかしデッカードが瞳の色が違うという理由で偽物を押しのけると、ラヴはためらいなく複製品を処刑する。企業の莫大な利潤の前では、命も、過去の愛おしい記憶も、即座に廃棄処分される消耗品だ。ウォレスの無菌室のような聖域には、「生命」という有機的な奇跡が入り込む隙間がない。

閉じては開かれた冒頭の瞳、身元を確認するために抉り出されたサッパーの眼球、毎回Kの瞳孔を読み取っていった密室のレンズ。この世界で「見る」とは、すなわち「見分ける」ことだ。だからデッカードが瞳の色ひとつで偽物を即座に見抜いたのは、決して些細な言いがかりではない。世界でもっとも多くの生命を造り出した傲慢な創造主だけが、最後まで何ひとつ見分けられぬまま、闇のなかに取り残される。

彼女が私を「ジョー」と呼んだとき

ウォレス社が独占したのは肉体だけではない。彼らは徹底した孤独に苛まれる者たちのために、人工知能ホログラムの恋人「ジョイ」を販売する。Kの狭い部屋で、ジョイはいつもそこで彼を待っている。それは、この都市が彼に差し出した唯一の慰めだ。侮蔑と疲労でぼろぼろになった一日を引きずって部屋に入ると、ジョイは変わらぬ優しさで彼を迎える。たとえ金で買った精巧な幻であろうと、Kは喜んでその優しさのなかに疲れた身体を横たえた。

自分は単なる複製人間ではないかもしれないという疑いに揺れるとき、ジョイはシリアルナンバーの代わりに「ジョー(Joe)」という本当の名前をつけてくれる。誰かが自分の名を呼ぶということ。それは乾いたシリアルナンバーの世界からKを掬い上げた唯一の命綱だった。低く呼ばれるその名のなかで、彼はつかの間、自分が代えのきかない存在だという錯覚に浸った。

雨の伝う窓辺に、白いカップと桃色に光る半透明のカップが並んでいる。

ある日、Kはジョイにエマネーターを手渡す。部屋のなかに縛りつけられていた彼女を外の世界へ連れ出す、掌ほどの装置。ジョイは生まれて初めて屋上に立ち、雨に打たれる。雨粒は彼女の肩の上で一瞬ためらい、やがて力なく散っていき、そのたびに像は微かに震える。何ひとつ完全には自分の身体に触れないという事実を、二人とも知っている。

それでもジョイは、生まれて初めて感じるのだと言って明るく笑う。触れられない身体で、それでも雨に打たれに出ていくその心を何と呼べばいいのか、映画はついに教えてくれない。

ジョイがKに決して与えられないただ一つ、それは肉体だった。だから彼女は外から別のレプリカントを呼び寄せる。娼婦マリエットの身体の上に、ジョイの像がそっと重ねられる。二つの顔は完全には重ならず、絶えずずれながら流れていく。そのずれのなかで、Kは初めてジョイを撫でる。プログラムが指示したのか、彼女自身が望んだのか、知る術はない。ただ、触れたいというその気持ちだけは本物のように見える。

追われる身となったKが街を離れようとするとき、ジョイは自分をコンソールから消し、エマネーターのなかへ移してほしいと願い出る。装置が壊れればそれで終わり、戻る原本が消えるということだ。みずから有限の存在になることを買って出たのだ。

木彫りの馬に残った放射線量が、二人をラスベガスへと導く。放射能爆弾が舐め尽くした赤い廃墟、人影の絶えたカジノに、老いた男がひとり隠れ住んでいる。

Kがあれほど探し求めたデッカード。しかし、自分が彼の息子かもしれないという希望の時間は、ほんの一瞬にすぎなかった。真実を確かめる間もなく、ウォレスの追手が二人の隠れ家を襲った。

ラヴがデッカードを引きずり出し、Kを踏みにじったあの赤い廃墟。ジョイは壊れていくKを守るため、進んでラヴの前に立ちはだかった。

「これまでウォレス社の製品をご利用いただき、ありがとうございました。」

その一言とともに、ジョイのすべてが収められたエマネーターは、ラヴの靴底の下で踏み潰された。Kの人生を支えてきた唯一の世界さえ、飛び散る破片とともに宙へ崩れ落ちていった。

戻るバックアップはない。彼女がみずから消してしまったからだ。

何者でもない者

だが、本当の悲劇は別のところにあった。その記憶は本物だったが、決して彼のものではなかったという事実である。

死にかけたKを拾い上げたのは、レプリカントの抵抗軍だった。生まれた子どもを守るために、進んで散り散りになり闇のなかに隠れ住んできた者たち、サッパーが最期の瞬間まで志を共にしていたあの一団だった。

首領フレイサは、子どもが生まれた夜をその両の目でしかと見届けた証人だった。いま彼女に右の目はない。シリアルナンバーが刻まれた眼球を、みずから抉り出したからだ。

Kが名前ひとつを得ようともがいているあいだ、誰かは進んで名もなき者になるために自らの目を抉った。バーコードのように刻まれた番号を消すことにさえ、それほど凄惨な代償が必要だった。

フレイサが口を開く。奇跡の子は、女の子だったのだと。

Kはレイチェルが産んだ奇跡の子ではなかった。頭の奥深くに移植された幼年の思い出は、本物の子どもが経験した過去を無断で複製して植えつけた幻にすぎなかった。死んだと記録された女の子こそが実は生き延びたほうであり、Kが自分のものだと信じて追った男の子のほうこそ、はじめから世界に存在したことのない虚像だった。

その記憶の本当の持ち主であり奇跡の子であるのは、まさに無菌室に閉じ込められて他人の偽りの人生を紡いでいたアナ・ステリンだ。彼女は自身の身を切るような実体験を切り分けて、レプリカントたちの頭に移植してきたのだ。もっとも偉大な奇跡が、世界からもっとも遠く離れた無菌室に保存されていたわけである。

Kの記憶を覗き込みながら彼女が流した涙の意味も、そのときになって完全に裏返る。それは見知らぬ者の不幸に向けた薄っぺらな憐れみではなかった。失われた自分の幼年期を他人の頭のなかで再び目にした者の、涙だった。

すべてが誤解だったと悟ったKは、ふたたび徹底した「何者でもない者(No one)」へと転落する。フレイサは子どもの正体がウォレスに露見するのを防ぐため、大義を名分にKへデッカードの暗殺を指示する。いまやKは、人間の命令であれ抵抗軍の命令であれ黙々と服従するほかない、本来の部品の座へ戻ったかに見えた。

そうして雨の街をさまよっていたKは、屋外広告板の上、宙を泳ぐ巨大なジョイのホログラムと出くわす。ホログラムは彼を見下ろしながら囁く。「いい名前に見えるわ、ジョー。」それは徹底してプログラムされた広告の文句にすぎなかった。

巨大なピンク色の幻の前で、Kはついに悟る。ジョイがつけてくれた「ジョー」という名前も、彼女が差し出した献身と愛も、そのすべてが結局は消費者の好みに合わせた基本設定だったのかもしれないということを。

雨の降る無人の屋上で、桃色のホログラムの扉だけが光っている。

しかし、何ひとつ明らかにはならない。自分をコンソールから永遠に消してほしいというジョイの最後の願いだけは、世のどんな商品にも標準で入力されているはずがないからだ。ジョイの愛が本物だったのか偽物だったのかは、ついに知りようがない。いま残っているのは、その偽りの慰めさえ必死に握りしめたかった自分の「本物の悲しみ」だけだ。降りしきる雨のなか、Kはただ黙って広告板を見上げる。

完全な自由、固有の終わり

生まれながらの特別さという幻想が粉々に砕けた空白の場所で、Kは初めて誰のものでもない、ただ自分だけの選択をする。彼はデッカードを殺せという抵抗軍の命令にも、痕跡を消せという警察の指示にも従わない。代わりにラヴを倒してデッカードを救い出し、彼の娘アナ・ステリンのいる研究所へ導く。

水の上に引き上げられたデッカードは、いっそ死なせてくれればよかったのにと問うが、Kは短く答える。あなたはあの車のなかですでに死んだ、と。それは生かしておいたのではなく、世界から消してやったのだ。生涯、他人の痕跡を消してきた彼が、最後に自分のもっとも得意なことをした。ただし今回は、誰かを殺すためではなく、生かすために。

Kはもう、自分の物語が特別であることを望まない。たとえ奇跡の子ではないとしても、彼は断絶した父と娘のあいだに、自分という最後の部品を嵌め込むことをみずから選ぶ。注入されたプログラムでも、組織の大義名分でもなかった。「K」という一個体が、自ら下した決断だった。

ラヴは主人の唇を通して名を受け取り、フレイサは名を消すためにみずから目を捨てた。Kは愛だと信じた存在から名を受け取り、それがただの商品の標準仕様だったかもしれないという可能性まで抱えたまま、最後までその名を守り抜いた。三人のうち、自分が何と呼ばれるかをみずから決めたのは、Kただひとりである。

雨を透かすネオンサイン、触れられないホログラム、魂の重さを試した密室のレンズたち。振り返れば、彼のかたわらには常に偽りの光ばかりが揺らめいていた。もしかすると彼が望んでいたのは、特別さを証明してくれる光ではなく、自分がここにいると告げてくれる冷たい感触だったのかもしれない。

ついにすべての使命を果たし、石段に身を横たえたとき、静かに舞い降りて頬に落ちた雪片だけは、それまでとは明らかに違っていた。ガラス戸一枚を隔てて、部屋のなかではアナが新しい記憶を紡いでいた。

彼女の指先から、雪の降る冬が咲きひらいた。父がガラスに手を当てて娘を見つめるあいだ、扉の外の男は降りしきる雪を浴びながら静かに冷えていった。娘が創り出した雪と、男が最後に触れた雪は確かに別のものだったが、少なくともその瞬間だけは、ひとつの手ざわりとなって世界を濡らしていた。

ジョイの身体の上でためらい、散っていった雨粒とは違い、冷たい雪片はついにKの手のひらの上へ、まるごと降り立つ。血を流して倒れた彼は、静かに雪の感覚を味わうばかりだ。自分が人間なのか道具なのかは、もう重要ではなかった。

雪が降り積もる石段。その場所で終わりを迎えた刹那だけは、シリアルナンバーKのものではなかった。ついにみずから掴み取った、完全な「ジョー(Joe)」の時間だった。

雪と氷の残る石畳の割れ目に、一輪の白い花が咲いている。

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